2008-05-27

仮説 - 砂上の楼閣

昨日見た、花に水をやるおじさんの行動について仮説をたててみる。
  1. 水をあげていたわけではなくて、液肥かなんかをやっていた。
  2. 水をあげるふりをして、実は液状の何かを不法に廃棄していた。
  3. ただ単に日課なのでやった。
  4. ボケたので、ツッコミを待っていた。
  5. 今ノボケヲ、ミクシィノ日記ニ書クダロウ。マイミク、増エルトイイネー。ヨギータラガシャマナンジャワディカー。と言いたいがためにやった。
  6. 嫁との確執にいたたまれなくなって、「うん。オレちょっと花に水やってくるよ」。「ちょっと!水やるって雨降ってるじゃないの!バカじゃないのっ!いつもそうやって逃げるんだからっ!」という言葉を背に受けながらやった。
  7. カッとしてやった。いまは反省している。
  8. そもそも雨が降っていることに気づいていなかった。
  9. なぜ傘を差しているのかということにも気づいていなかった。
  10. 基本的に水をあげているということすら、気がついているのかどうかもあやしい。
  11. おじさんは実は岡本太郎だった。雨降りに水をあげてもいいじゃないか。
  12. おじさんは実はラッキィ池田だった。じょうろは黄色のゾウさんだった。
  13. おじさんは実は『ムチャの度合いが、ケタ違い』な聖☆おじさんだった。

さて、どれだろう? (たぶんどれでもありません)

2008-05-26

砂上の楼閣

今日、旭川はざあざあの雨でした。車に乗って信号待ちをしていてふと窓の外に目をやると、傘を差しながらじょうろでお花に水をあげているおじさんがいました。

何かのまじないでしょうか?

シュール。

2008-05-20

ランディ・パウシュの「最後の授業」



ランディ・パウシュは CMU の教授で VR の権威。肝臓がんでこの動画の時点では余命 3 〜 6 ヶ月と診断されていたようです (こちら を見るとご存命ですね。よかった) 。その『最後の授業』と称された講義の動画。

もし自分の人生にタイムリミットが設定されてしまったとき、残される親しい人々に何をしなければならないのか考えさせられましたし、そしてそれを素晴らしい形で実行した例なんじゃないでしょうか?

話はかわりますが、こういうものを簡単に誰もが見れちゃうってのはネットの良いところですよね。最近『小中学生にケータイを持たせちゃダメ』とかいうようなハナシがあるみたいですけど、どーも素直にうなづけないというか。いや、別に必要じゃないだろってのもわかるし、大人はいいけど子供はダメってのもある意味正しい見識だと思うんですが、物事のネガティブな部分を基準にしてバッサリ、というのはいかん気がします。良いところもあるんだと思うし。

さらに話はかわりますが、こないだ生ごみを捨てるときには新聞紙で中身が見えないようにして (カラス対策らしいです) 捨てましょうという回覧板が回ってきました。えーと、なんのために中身が見える袋を導入したんでしたっけ?だから物事のネガティブな部分を……

あ、動画の続きは こちら から。


追記 - 2008-05-21

あー、人生のタイムリミットは誰しもが設定されているんでした。忘れがちですけど。
Do you realize? - that everyone you know someday will die.
Do You Realize? - The Flaming Lips

2008-05-19

工学部・水柿助教授の解脱 - 森博嗣 著

工学部・水柿助教授シリーズの 3 作目。たぶん最終巻。

「森博嗣って面白いってハナシ聞くし、とりあえず読んでみようかなあ?」なんて人は読んじゃいけない。『スカイ・クロラ』が映画化されて、ファンの裾野が広がるかもしれないけど、とにかく水柿助教授シリーズを最初に手に取っちゃいけないと思う。なんだったらオビに断り書きを入れたほうが良いのではないでしょうか?『一見さんお断り』って。

このシリーズはあくまでコア (?) なファンのためのもので、それは作者本人も相当自覚的に書いているんだと思う。そういう意味ではとってもサービス心旺盛なシリーズ。ニッチ。森博嗣 2.0 。

なんていうんですかね?武道において師匠が弟子にまず強烈な一撃を加えると、弟子はその一撃を忘れることができずにその後も師匠と弟子のチカラ関係が保たれる、という構造に似ているのかもしれません。作者とファンって。

んー、全然面白そうにみえないですね、これじゃ。いや、私は面白く読んだんですよ。1 冊の中にもしかしたら数行かもしれない一瞬の切れ味を期待しつつ読む、ってのもなかなかスリリングですし。まあ、なにせファンなもんで。

2008-05-16

集合体としての湖

今年はやっぱり何もかもが少しだけ早いようで、もう田んぼに水が張られました。苗の生育が早かったらしいです。

苗を植えるまえの水田というのはただの水溜まりなので、まわりを水田で囲まれた農家などは、見る角度によるとまるで水の上に浮かんでいるかのように見えます。

月の夜、街灯のない田舎の一本道で車を走らせていると水面に月の明かりが反射して、一種独特の感覚が味わえます。浮遊感があるっていうか。David Bowie の Space Oddity なんかが似つかわしい感じ。

で、年配の人と話しているとたまに聞く話で『田んぼに水が入ると、ちょっとだけ寒くなる』というのがあります。えー、ホントかよ、って私なんかは思うんですがちょっと気になったので考えてみました。

旭川の水稲の作付面積は こちら によると 6330 ヘクタールだそうです (平成18年) 。ヘクタールってどのくらいなんだろ?ってことで Google さんに「6330ヘクタール」と訊くと、63300000 平方メートルですよと換算してくれました。親切だなあ。キロに直して、63.3 平方キロメートルが旭川中の水田を集めた面積になりますね。へー。

どうもまだ実感として大きさがわかんないです。ということで、こちら で実際の湖の大きさと比較してみます。一番近い大きさの小川原湖ってのは見たことないんでいまひとつですが、とりあえずは十和田湖以上浜名湖未満って感じですか。ううむ、なかなかデカいかも。遊覧船が走っててもおかしくないサイズですねえ。

ここまできたら、Google さんに「ルート(63.3/3.14)」と尋ねて円の半径を割り出します。約 4.5km ってことなので、旭川駅を中心として地図上に表示してみましょう。



おお、なんというか市内ほぼ全滅。ハリウッド映画みたい。しかしまあ、浅いとはいえ 1 週間ほどでこれだけの面積を水がおおうってんだからスゴいなあ。これは気温くらい下がっちゃうかもしれない。

ああ、なんかどこにもたどり着かない感じの投稿だな、これ。

2008-05-15

本屋さん

ここ最近、本を買うというとだいたいアマゾンで済ませていたのですが、先々月、mixi:サイガウマさん と話したときに「それはイカン」と諭されまして。その論旨が至極妥当なものであったため、心を入れ替えた私は昨日、さっそく本屋さんを訪れたのです。

あ、でも先々月のハナシって時点で全然『さっそく』ではないですね。

えー、心を入れ替えた私ですが、紆余曲折 (先月の旭川は観測史上まれにみる暖かさで、4 月もまだ中旬だというのに山には辛夷がぽつらぽつらと咲いていた / その風景があまりにもきれいだったので、もしいつの日にか自分が家を構えることになったなら、庭には一本の辛夷の木を植えたいものだと思った / なぜなら辛夷は北海道の春を告げる樹木なので / でもあんまり家の庭に辛夷を植えている人っていないよね / 辛夷かな?と思って近づいて行ったら木蓮だったりするし / 木蓮はちょっと花がごつくて苦手だなあ / あ、もしかして辛夷って家相に悪かったりするのかしらん? / でもそういうことで自分の信念を曲げるのはどうかと思うな / いや、まあ庭木程度で信念ってほどのことではないか / ともかく運命が人を左右するのではない / 人が運命を左右するのだ / 島本和彦『燃えよペン』からの引用&脚色ですが、など) ありまして、昨日ようやく本屋さんを訪れることができたのです。

いや、久しぶりに本屋さんに行くといろいろ見ちゃいますね。アマゾンだとすごくピンポイントですが (『この商品を買った人はこんな商品も買っています』のおかげでピンポイントなだけじゃなくなりましたけども) 、本屋さんだとテレビのチャンネルをがちゃがちゃ回してる感じ。月刊誌の特集なんて本屋さんじゃないとなかなかわかんないですもんね。あと『出会った』感は本屋さんのほうがあるかも。うん。

というわけで、森博嗣と養老孟司と向田邦子を買ってきました。これから読みます。

2008-05-13

寅次郎

以前、信号機についてちょっと考えたことがありました。車に乗って信号待ちをしているとき、何の気なしに歩行者用の信号機を見上げるとどうにも切なくなることがあって、なんだろうなあと不思議に思っていたんです。

考えていくうちに、これは信号機を見上げる角度に原因があるのではないかと思いついて、運転席 (普通のワゴンです) に座っている時の自分の目の高さを考えてみるとおよそ 120 〜 130cm 。調べてみるとこれはだいたい小学 2 〜 4 年生の平均身長なんです。つまり、この切なさというのは自分が小学生の頃に見上げた歩行者用信号を起因とするフラッシュバックで、そんな過去の風景のノスタルジーなのではないかと。

以降、それを風街ろまんならぬ『信号待ちろまん』と名付けて、夕暮れ時の信号待ちの際など「おお。切ない。信号待ちろまん」などとひとりごちているのです。

しかしながら「なるほど。となると君はアレですか。信号待ちのたびにフラッシュバック&ノスタルジックですか。ほほう、それはなかなかオツなもんでげすな。精神衛生にもたいそう良さげ。おほほほほ」というわけにはなかなかいかないもんで、やっぱり赤信号ってのはどうしてもイライラしがちです。できれば全ての信号が私のために青信号になれば良いのに!パンがなければケーキを食べれば良いじゃない!とか思ったりします。やんぬるかなやんぬるかな。

でも、そんな私にもたったひとつだけ、とある場所にぜひとも止まりたい交差点があるんです。というか、むしろ能動的にアクセル調整及びブレーキングなどをほどこし、無理やり止まったりするくらいに。

その交差点はたまーに通る道で、なんの変哲もない田舎道なんですが、かどに一軒の家と一軒の犬小屋がありまして、その犬小屋の主は『寅次郎』といいます。彼を見たいがために私は赤信号を望んでいるのです。

どうやら彼は身だしなみには無頓着なほうらしく、白いちぢれ毛はいつも黒く汚れていて、それでもなんというか素敵に泰然としております。道路を走る車にも特段の感慨はないようです。いや、もしかしたら近年の HONDA 車の動向には並々ならぬ興味をお持ちなのかもしれませんが、地味な TOYOTA 車に乗っている私にとっては計り知ることのできないところであります。

もう 5 年くらいのお付き合いになるでしょうか。見るたびに「ああ、いるなあ」とか「あ、今日はおうちの中ですか。そうですか」など、まあ水のように淡いお付き合いですが、ともあれお元気でいてもらいたいものだと願っております。その限り、私は右足の微妙なコントロールを駆使してお付き合いを続けていく次第です。

2008-05-12

Porcupine

ウチには 8 ヶ月になる息子がいるのですが、先日、歩行器を買ってもらったのでそれに乗ってかなり行動範囲が広がりました。

ちょっと離れて名前を呼ぶと、にこにこしながら、しかもちょっとだけ得意気な顔つきでがらがらと近づいてきます。

で、だいたい車輪で私の足を踏みます。わりと痛いです。

あ、こういうのってもしかして『ヤマアラシのジレンマ』っていうのかしらん?と思って調べてみると、

ヤマアラシのジレンマ

全然違いました。ショーペンハウエルって今は『ショーペンハウアー』って表記なんですね。ハウアーなんていわれると、もう頭の中でショーペンハウエルの顔がルトガー・ハウアーです。しかもブレードランナーのレプリカントの時の。困った。でもなんとなく悲愴な感じが似つかわしいかも。

えー、何がいいたいのかというと、インターネットがあるとすぐに調べられるので、知ったかぶりで恥をかかなくてとても便利だなあ、と。あと Porcupine といえば Echo & The Bunnymen ですが、私が吸っている煙草は echo です。パッケージデザインが非常に良いと思うんですが、なかなか賛同を得られません。180 円で、値段のわりにいっぱいタールとニコチンが入っているのでとってもおトクなんですよ、ともオススメするんですが、これもどうやら賛同を得られません。

ご年配の方にはウケが良いです。お、懐かしい煙草吸ってるね、なんて。

2008-05-09

たのしい Ruby - 2

前回の続き。

パソコンを使い始めてしばらく後のこと、何かで読んだ / 聞いたところによると、どうやらパソコン通信というものがあって、Nifty-Serve ってところのフォーラム (会議室) では同好の士が集まって、いろいろと有益な情報がやりとりされているらしいということを知りました。でもそれをやるにはモデムを買ってパソコンを電話線に繋げなくちゃダメであるということも。なんか面倒くさそうだなあと思いつつも、まあ周囲でも E-Mail を使える人がいた / 増えてきたことだし、じゃあひとつやってみようかと 28.8k のモデムを買い、Nifty-Serve と契約をして、パソコン通信とインターネットができる環境が整ったわけです。

で、ニフティマネジャー (だったかな?) という専用通信ソフトを使ってちょこちょことフォーラムを覗いたりするようになって「世の中にはなんと濃い人達がいることか」とびっくり。あと BBS#8 にもびっくりしましたね。人はここまで文章で誹謗中傷罵倒しあえるものなんだなあ、と (笑) 。こわいなあ、と。

で、そんなことをしているうちになんていうんですかね、ふと文系と理系というラベルというのは無効なんだなという気がしたんです。結局、嫌いな事柄に対してのエクスキューズがラベルなんであって、その逆はないんだなあというか。

いや、それだって面白いほうへと流れただけかもしれない自分に対してのエクスキューズなのかもしれんですけどね。とにかくそのように感じちゃったんです。頭ごなしは損だなあって。

で、現在に至る。現在の自分は Ruby を勉強してみようと思っている。さて、なぜだろう?

たぶんこの長々と書いたものの中にその答えがあるような気がするんですよね。飢えとかびっくりとか面白さとか。うまく抽出できんのですけど。

別に Ruby じゃなくてもいいんじゃないの?というハナシもあるんですが、いろいろ見てると『Ruby で初めてオブジェクト指向がわかりました!』って方が多くいらっしゃるみたいなので。

格好良いですよね、オブジェクト指向。何が格好良いって言葉の響きが格好良い。どういう意味なのか、まったくもってわかりませんけれども。あはは。

2008-05-07

たのしい Ruby - 1

さて、Xubuntu も入った。Ruby も入れた。Emacs も OK (ruby-mode も) ということで、Ruby の勉強を始めたいと思う。単純に趣味として。

高校 2 年生の時、同じクラスの I 君が「これ、面白いよ」といって貸してくれたのが村上春樹の『ノルウェイの森』だったんです。子供の頃からわりと本を読むという行為に抵抗がなかったというか、どっちかといえば好きの部類に入る方だったんでしょうけど (佐藤さとるとか眉村卓あたりが好きでした)、中学生になって部活やらなんやらでずーっと読書から遠ざかってたんですね。自覚はなかったんですけど、もしかしたら『飢え』のようなものもあったのかもしれない。

それが『パーソナルな読後感』で定評のある (笑) 村上春樹を読んじゃったもんですから大変です。ご多分に漏れず「我こそは一番の読者なり」なんて勘違いもして、とにかくその時に手に入る村上春樹の本はすべて読む。さらに村上春樹が影響を受けた (とされる) 、チャンドラー、ロス・マクあたりのハードボイルドやらキングやらレイ・カーヴァーやらヘミングウェイやらヴォネガットやらディケンズやら。ともかく村上春樹を読んだことのある方はわかると思うんですけど、『カタログ文学』なんて揶揄されるくらいですから、たどっていくのは非常にたやすいんです。『ディビッド・コパフィールド』、読み応えあったなあ。もう、あらかた忘れちゃったけど (笑) 。

あ、音楽の趣味は村上春樹とは合わなかったみたいです。つか、もうすでに好きな音楽の方向性は固まっていたので。

えー、そこでですね、「ああ、オレって文系だなあ」と思っちゃったんです。たぶんそうなんです。で、もう文系なワタシなもんですから、理系的なものがイヤなわけです。いや、このあたりちょっと自分でも頭おかしいんじゃないかと思うんですけど、ともかくその当時はそうだったんですね。ええ。

その後も本を読んだり、映画を観たり、音楽聴いたりと、まあなんというか『文系的生活』を送ってきたわけですが、1996 年 (だったかな?) に仕事でパソコンを使うハメになりました。パソコン。略さずにいうとパーソナルコンピュータ。いやはや、コンピュータですよ。理系の総本山じゃないですか (違うと思う) 。いうなればイスラムでいうところのメッカ、真言でいうところの高野山、天台でいうところの比叡山ですよ (だから違うと思う) 。こんなね、クリーム色の四角い箱 (NEC の 98 シリーズでした) に与するわけにはいかない。お前とオレはアレだ。仕事上の付き合いだ。砂漠のようにドライな付き合いなのだ。ああ、道端ですれ違ったとしても、声なんてかけないでくれたまえ。という感じでまあ文書作成や表計算、経理事務くらいの使い方だったわけです。

そう、最初のうちは。

えーと、なんだか長くなっちゃったんで続きます。おい、Ruby はどこへいった?

2008-05-03

Emacs の設定 - 4

ToDo 実行。

Ruby が入ったので、emacs.el に ruby-mode の設定をする。

;;; ruby-mode
;;; M-x ruby-mode か *.rb を開けば ruby-mode、
;;; M-x run-ruby で irb、
;;; Mx rubydb でデバッガが起動する
(autoload 'ruby-mode "ruby-mode"
"Mode for editing Ruby source files" t)
(setq auto-mode-alist
(append '(("\\.rb$" . ruby-mode)) auto-mode-alist))
(setq interpreter-mode-alist (append '(("ruby" . ruby-mode))
interpreter-mode-alist))
(autoload 'run-ruby "inf-ruby"
"Run an inferior Ruby prosess")
(autoload 'inf-ruby-keys "inf-ruby"
"Set local key defs for inf-ruby in ruby-mode")
(add-hook 'ruby-mode-hook
'(lambda ()
(inf-ruby-keys)))

2008-05-02

動画の埋め込みテスト

Blogger の投稿エディタには『動画を追加』というボタンがあるので試してみる。

あ、ローカルな動画のアップロード用なんですね。YouTube とかの埋め込みのボタンなのかと思ってましたよ。そっかー。

せっかくなので YouTube から埋め込みタグを引っ張ってきての埋め込みを試してみる。



できました。ちなみにこの動画は Phun というソフトの動作画面。

Phunとは、スウェーデンにあるUmea(ウーメオ)大学VRlab(Virtual Reality Laboratory)の学生、Emil Ernerfeldt氏が開発した物理演算ソフトです。
重力をもったフィールドに、四角や円、手書きによる描画を直感的に操作することができ、自由な組み合わせによって様々な仕組みを作り出すことができる今までにない新しいゲームです。
Phunは、ゲームとしての面白さを追求するだけでなく、重力、バランス、力という物理学の基本を学び、自己表現力や発想力、分析力、問題解決能力等を高める知育ソフトとしても今後注目されるでしょう。


スゴいですよね、これ。Nintendo が買い取ってそのまま DS で出したら売れると思う。ポスト・ピタゴラスイッチみたいなアオりで。

CURSE!!!

一度目にすると、思わず最後まで見てしまう。これはもう呪いの域に達しているのではないかと。
--- ルパン三世 カリオストロの城

前と次

いろんな人がブログを書いていて、それこそ文章で生計を立てているような人まで (たぶん、タダで) ブログを書いている。スゴい世の中だなあ、と改めて思うんです。

内田樹は昨日のブログで、
ブログは「字数制限なし」「テーマ制限なし」「オチなし(もあり)」「使用禁止用語なし」というたいへん自由度の高い、いわば私にとっての「落書き帳」であり、好き放題書ける代わりに、とてもこのまま世間に商品としてお出しできるようなクオリティのものではない。

と書いているけれども、ファンにとっては好きな人の文章が毎日手元で読めたりするのはやっぱり喜びですよね。

面白いブログを『発見』した時なんて、やっぱり嬉しくってしばーらく読み込んでしまったり。で、ブラウザ画面は下方向へスクロールしていって、そこで自分は唐突にある選択を迫られるはめに陥るわけです。

「前の投稿???次の投稿???」

そうなんです、まあいろんなパターンがあると思うんですけど、この『前』とか『次』とかってどっちが過去でどっちが未来なのかわかりづらくないですか?さらにこれが画面の右側に出てたり左側に出てたりがまちまちだったりするので、余計混乱してしまうんです。以前のものを読みたいのに新しいものが出たりすると、何故か知らないけどすごーくがっかりするんですよね。自分の読解力の無さをロジカルになじられているような、そんな気になってしまいます。

  • previous を訳して『前』
  • next を訳して『次』

ということなんだろうなあと思うけど、きっと英語圏の人はきちんと prev と next に関しての時間的なものが身についているんでしょうね。あ、きっと日本語の『次』がクセモノなんですね。時間由来の『次』と動作由来の『次』とがごっちゃになりがち。なるほど。

そして『右』と『左』に関しては、自分としてはグラフ的に左から右へ時間は進んでいくイメージがあって、それを踏まえて過去に行くリンクは左側に、未来に行くリンクは右側に設置してもらいたいものだと (勝手に) 思ってるんですが、たまーにそれを裏切ってくれるものに出会ったりもします。そういうところに限ってそのリンク表示が『<<』と『>>』のみだったりして、なんていうんですかね?「引っかかってやんの!はっはー!!!」と嘲り笑われている気がします。完全に被害妄想なだけですけど。

だから、何?って話ですね。いや、ただのグチなんです。すいません。

というだけなのもアレですか。えー、きっとその記事/投稿から相対的に時間を表現するのが難しいんじゃないかと思うので、ここはもう絶対的に左側に『過去!』、右側には『未来?』とリンク表示するのが良いのではないかと。

ちなみに『!』には「がんばって言い切ってみました!」的な意気込みが表されていて、『?』には「もし、いま表示されているのが最新の記事で未来の記事がなかったらどうしよう?」的なとまどいが表されています。

以上、よろしくお願いします (誰に?) 。

2008-05-01

Ruby のインストール

ToDo 実行。

Ruby をインストールする。

Applications >> システム >> Synaptic パッケージマネージャ を起動して、ruby を検索。メタパッケージの ruby (1.8系でした) と、ruby-elisp を選択して『適用』をクリック。

うわ、相変わらず jp.archive.ubuntu.com のレスポンスが悪いです。タイムアウトの嵐。それでも根気良くリトライしてなんとかインストール終了。ターミナルで、
$ ruby --version
ruby 1.8.6 (2007-09-24 patchlevel 111) [i486-linux]
ちゃんとインストールされましたね。めでたし。それにしても apt-line は変えた方が良いのだろうか?

Blog のタイトル

いつまでも Blog タイトルがユーザ名的なものなのが寂しいような気がしたので、名前をつけてみました。

『鸚鵡のイズム』というのは自分が作った言葉ではなくて、寺田寅彦のエッセイの表題です。あ、時代的には随筆といったほうが良いですかね?ともかくまず、その語感が気に入っていたのと、その内容が自分にとって気にかかる事柄について書かれていたので印象に残っているんです。

しかしそこまで考えて行くと、人間の知識全体から自分の直接経験から得たものを引去った残りの全部は、結局同じようなものではあるまいかと思われ出した。少なくも仮りに私が机の上で例えば大根の栽培法に関する書物を五、六冊も読んで来客に講釈するか、あるいは神田へ行って労働問題に関する書物を十冊も買い込んで来て、それについて論文でも書くとすればどうだろう。つまりはヘレン・ケラーが雪景色を描き、秋の自然の色彩を叙すると同じではあるまいか。
--- 『鸚鵡のイズム』 寺田寅彦


文章はこの後、「事によるとこの最後の比較は間違っているかもしれないと思う。」とツイストするんですが、そこも好きな理由です。

昔からどうも「百聞は一見にしかずだよ、君 (笑) 」とか「君、それは畳水練さ (笑) 」という物言いに抵抗があるんですね。でもやっぱり断言はできないので、「いや、まあそうかもしれんけどさ、百聞だって畳水練だってわりかし楽しいもんすよ。いかがですか?今度ご一緒に。うちの座敷で。えへへ。」なんて無駄な抵抗をしたりする。せつない。

えー、話がずれているような気がしますが、百聞&畳水練好きの人が書いている Blog です。最後に小沢健二の歌詞を自分自身への警句といたしまして、ご挨拶にかえさせていただきます。よろしくどーぞ。

ありとあらゆる種類の言葉を知って、何もいえなくなるなんてそんなバカなあやまちはしないのさ!
--- 『ローラースケートパーク』 小沢健二



追記 - 2008-05-01
  • 『鸚鵡のイズム』と『オーラの泉』が似ていることに気づいてうろたえた。
  • 百聞も好きですが、百ケンも好きです。
  • 『鸚鵡のイズム』は 青空文庫こちら から読めます。興味のある方はどうぞ。